桜島から帰って、その感動や余韻が冷めやらぬうちに、高野山奥の院で蝋燭祭りがあるというので、そのことが気になり始めた。そう、これは八月中旬の話である。 昨年の暮れに雪の高野山で、延々と夜の奥之院に向かう参道をひとりで歩いたことを思い出した。クサッ、クサッと雪を長靴で踏みしめて歩いた。その音だけが、静かな参道に響いていた。 あの時は石灯篭の灯が灯っているのが、救いだった。何故、夜に奥之院に向かっていたかというと、昼間お参りしたときに、空海の御廟をお参りし損ねたからである。翌日、お参りしてもよかったのだが、あの時は、なぜだか今行くべきだと思ったからだ。そう思った時、奥之院に向かう参道が開いているという気がした。その夜の雪が降る奥之院の参道は正に印象的であった。 そして、夏のその日、あの夜の参道が、人々で賑わう様子を見てみたくなったのである。 そして、長野まわりで、車を走らせることにした。 小休止したサービスエリアでかき氷を食べて、一服した。中央アルプスに出る入道雲が夏の暑さを想起させようとしているが、今、その時の暑さを俺は思い出すことができない。 ホテルに着くと、すぐに高野山に向かった。思っていたとおり、奥之院の駐車場は混んでいて、一度目では車を停めることができなかった。駐車場の空き地には、屋台の店が出ている。一回りして、二度目でも停められなかった。そこで、駐車場を出て、道に停めることを考えた。道にも一列で車が駐車されている。これもまた、ひとまわりめでは駐車できず、ふたまわりめで、参道の入り口から少し離れた場所に駐車することができた。 祭りの縁日のように賑わう参道を人の群れに紛れながら歩く。あの雪の日の参道の記憶が蘇るが、参道の賑わいがそれをすぐにかき消した。そうして、幾千、幾億という魂が、この蝋燭の灯と人々の声に誘われて、蝋燭の灯のもとに舞い降りてくることを想像した。 その中に、俺の親父やお袋がいるのかもしれない。いや、必ずいて俺をみているに違いない。 その日は、本堂をお参りして、空海の御影を頂いた。友にも奥之院のお守りと根付を頂いた。 ...