川の水源を求めることは、埼玉北部の水、つまり、埼玉県北人の気質を考察する上で、全く意味がないということではないと「埼北物語 2 」で書いた。その水は農耕民族である日本人の、農耕と農耕社会を育んできた。そして、戦国、近世にまで遡れば、上野国、下野国、信濃国、甲斐国、武蔵国が見え、戦国大名の上杉、武田、北条、そして藩主、領主の統治や権力図に思いを馳せることができる。そのロマンは、当時の勢力圏、文化圏が少なからず近代を経て現代においても影響を与えていることを物語っている。 児玉町排水塔 その水源、源泉から言うならば、「埼玉北部の水」は、群馬が濃く、長野、新潟、(山梨)の水が埼玉北部の水となっているということになる。そして、過去に向かうロマンで思いを馳せれば、現在の県境の町や村、山村のエリアは武田、上杉であっても、その勢力図が入れ替わるようなことがよくあったのである。重要なのはそのお膝元、直轄地ではなかったということであるとも言える。そしてその土地の領主、藩主と百姓と百姓侍で育まれた細かな勢力図と文化図である。しかし、武蔵国は江戸時代に於いては徳川の直轄地とされている。多くの穀物をもって江戸を支えていたということだろう。しかしながら、埼玉の北部はどうだろう北に離れているため、直轄色というものがそんなに濃くなかったのではないかと思っている。武蔵国といっても、むしろ、上野国の影響が大であったのではないか。一方、同じ武蔵国であっても埼玉の南部が江戸直轄色が濃かったのではないか。 そうして、太古から雨は山々に降り、水は浸み出し、川は枯れることなく滔々と流れ(あったかもしれないが)、土地を潤してきた。潤された土地には農耕が栄え、農耕社会が育まれた。自分は先の大名、領主、藩主の勢力図も含め、その筋の専門ではないので、詳しくはわからない。しかし、これはあくまで俺の考察であるのだけれども、同じ武蔵でも、南部は江戸の直轄色が濃く、北部はそれが薄く、上野や他国の影響大である。例えば、時代錯誤的であるかもしれないが、群馬の方言の「べぇ」は、埼玉北部で話されている。それは「かかぁ天下」のように、他のことでも多くあると思う。それが育んだ「水」つまり、人の気質であると思う。それは、直轄色が濃かった武蔵国の南部の水に比べると直轄色も薄く、上野や甲斐、信濃の国などの水が混じり...