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The End of North -埼北物語 児玉編3- 埼玉北部の水・・・

   川の水源を求めることは、埼玉北部の水、つまり、埼玉県北人の気質を考察する上で、全く意味がないということではないと「埼北物語2」で書いた。その水は農耕民族である日本人の、農耕と農耕社会を育んできた。そして、戦国、近世にまで遡れば、上野国、下野国、信濃国、甲斐国、武蔵国が見え、戦国大名の上杉、武田、北条、そして藩主、領主の統治や権力図に思いを馳せることができる。そのロマンは、当時の勢力圏、文化圏が少なからず近代を経て現代においても影響を与えていることを物語っている。


児玉町排水塔





 その水源、源泉から言うならば、「埼玉北部の水」は、群馬が濃く、長野、新潟、(山梨)の水が埼玉北部の水となっているということになる。そして、過去に向かうロマンで思いを馳せれば、現在の県境の町や村、山村のエリアは武田、上杉であっても、その勢力図が入れ替わるようなことがよくあったのである。重要なのはそのお膝元、直轄地ではなかったということであるとも言える。そしてその土地の領主、藩主と百姓と百姓侍で育まれた細かな勢力図と文化図である。しかし、武蔵国は江戸時代に於いては徳川の直轄地とされている。多くの穀物をもって江戸を支えていたということだろう。しかしながら、埼玉の北部はどうだろう北に離れているため、直轄色というものがそんなに濃くなかったのではないかと思っている。武蔵国といっても、むしろ、上野国の影響が大であったのではないか。一方、同じ武蔵国であっても埼玉の南部が江戸直轄色が濃かったのではないか。




 そうして、太古から雨は山々に降り、水は浸み出し、川は枯れることなく滔々と流れ(あったかもしれないが)、土地を潤してきた。潤された土地には農耕が栄え、農耕社会が育まれた。自分は先の大名、領主、藩主の勢力図も含め、その筋の専門ではないので、詳しくはわからない。しかし、これはあくまで俺の考察であるのだけれども、同じ武蔵でも、南部は江戸の直轄色が濃く、北部はそれが薄く、上野や他国の影響大である。例えば、時代錯誤的であるかもしれないが、群馬の方言の「べぇ」は、埼玉北部で話されている。それは「かかぁ天下」のように、他のことでも多くあると思う。それが育んだ「水」つまり、人の気質であると思う。それは、直轄色が濃かった武蔵国の南部の水に比べると直轄色も薄く、上野や甲斐、信濃の国などの水が混じり、それによって育まれた埼玉北部の水、所謂、人の気質というものは、長閑でいくぶん呑気で大らかであるのかもしれない。



 というように、川の水源や甲斐、信濃、上野の影響や直轄の薄さからうまくきれいに考察したように思えるが、これでめでたくハッピーエンドということになるけれども、なんだかこれでは、人の気質を解き明かすのにまだ考察が甘いような気もしてくる。なぜかというならば、一見、長閑、呑気、大らかと見られるような気質も、いいところばかりということでもなく、逆に働くと執拗で陰険、陰湿であったり、誹謗や中傷、陰口などにあらわれる嫌な面もあったりする。そう考えると、寧ろ、平野部である武蔵野の方が大らかといえば大らかであるのかもしれないとも思う。一体何を言い出すんだと思うかもしれないが、これはあくまである考察であるので、どうか悪く思わないで頂きたい。この三編を総じて、水、統治、地形を合わせて考えると、平たく言ってしまえば、埼玉県北人の気質というのは、ようするに、一言で言うなら「やまんちの百姓」であるのであろうと思うのである。それは、やはり、山の土地の影響を受けながら、色は薄いとはいえ同時に江戸、徳川の直轄地であった農耕社会の気質ということになるのかもしれない。




 さらに分析していくと、長閑、呑気は信濃、甲斐、上野の気質、大らかは武蔵野の気質、悪い面は直轄地としての農耕社会の気質ということになり、それらが合わさって、埼玉県北の水、気質を形成したいうことになるのだろうと思う。しかし、人の気質のようなものは、一概にこうだとは決めつけられはしないものだと思いつつも、やはり、土地柄というものは、否めないとも思うのである。人柄、気質としてその表面だけでなく裏までも浮き彫りにしてしまった。一長一短ということになってしまったけれども。バッドエンドということじゃないよね?まぁ、いいじゃないか。人は完璧ではないし、その人が作る社会や全体的な人柄も完璧でなんてありえない。「水清ければ魚棲まず」という。悲しいけれども、人の歴史であってそれも変わることはない。人の世に醜さがあるから、優しさや愛が存在するのだろう。だから、いいじゃないか。それでも、人の世に流れる水はどこまでも清らかであって欲しいと願ってしまうのは、俺だけかな。

 そして、俺は、埼玉の県北から地球規模の水の循環を想う。水はやはり低きに流れ、海となり、天に昇り、浄化され地に降り注ぐ。川は山で生まれ、太古から命の水は枯れることなく蕩々と人の世を流れゆく。


児玉町模範蚕室



 『埼北物語』と幾分大袈裟な見出しで、埼玉県北の水源から、それは自分が気になるところでもあったので、埼玉県北人の気質を考察してみました。同時に最も埼玉の北の『児玉編』として、児玉町の文化遺産なども紹介させて頂きながら、ひとりめし流に現在の児玉町の町の食堂も何軒か紹介させて頂きました。川の流れを通して、過去と現在とが入り混じる展開となりました。果たして、「県北の水」は解き明かすことができたのでしょうか?!
 この三篇の特集は詳しい埼玉県北の歴史を解き明かすものではなく、単に埼玉県北人の気質を解き明かしつつ、児玉の文化遺産に触れるものでありましたが、これをもって『埼北物語-児玉編-』とさせて下さい。


R.






塙保己一記念館

そして、この土地の偉人
塙保己一を忘れてはならない





塙保己一は1779年に『群書類従』の編纂を決意し
般若心経を一日百回、百万回詠む誓いをたてる



この小冊子には
1821年までの43年間に
198万回詠んだことが記されている


南無天満大自在天


群書類従の木版

















さらにこの土地には
雉岡城跡がある















さて、それで、今回は『岩谷洞』を紹介させてもらうよ。


岩谷洞




細い道を車で登れるのはここまで


ここから、さらに細い山道を幾多の石仏に見守られながら進む





その道は、やはり空気が違う
気が澄んでいる








多くの人々が寄贈したと思われる石仏が並ぶ


児玉町の民話に・・・


かつて、弘法大師が唐から帰国した後
この地を訪れ
加持祈禱を行い、悪霊退散を願い
ここに大本山を開こうとした



しかし、長虫の長が美女に姿を変えその洞窟を訪れ
ここが霊山となれば
自分らはここを追われてしまうので
やめていただきたいと告げる



やめていただけるならば
自分らは地下に潜り風洞に籠って
この地方を風や嵐から守りましょう
という



弘法大師は
長虫を追って開山をすることは
仏の御心に沿うまいと
加持祈祷をやめ
開山をとりやめた

とある・・・

(長虫とは蛇の総称です)




















蛇がこの地を守っている
という
言い伝えである


R.




最後に今回も『ひとりめし』の食堂を紹介するよ!


万福苑


カルビのセット



このスープがまた旨い



疲れた時に
ランチでカルビを
焼いて食えるなんて
最高だろう




シントミ



シントミの
濃厚タンメンと餃子








一代元




一代元の
拉麺と餃子








仁吉


仁吉の
かあちゃんが作る
ごまだれの蕎麦は旨いよ



黒と白のごまだれが選べるんだよ








R.



コメント

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