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男のダンニャバート !! とジバン

日の男のひとりランチは、『ダンニャバート』

 「ダンニャバート」はヒンズー語で「ありがとう」の意味だ。ヒンズー語といっても、インドだけではなく、ネパールも「ダンニャバート」を使う。ここの店員はネパール人で、コックはルンバニの出身である。店に入った時になんだか非常に親近感を覚えたのは、自分がカトマンズ中心にネパールを旅したことがあるからかもしれない。
 あの時、確かゲストハウスに宿泊して、初日にカトマンズ市街を歩いていると、日本語が非常にうまい少年に出会った。最初、自分の旅の経験から日本語で話しかけてくるやつはろくなやつはいないという思いがあって(悪くとらないで欲しいけれども、多くの場合、金目当てか、日本人好みの趣向を心得ていて、そういうところに案内し、やっぱり金めあて、金めあては当たり前と言えば当たり前なんだが、高額のということである。それに自分はバックパッカーのような旅をしていたわけではないが、比較的チープな旅をしていたので。更に特に日本人好みのということでもなく、自分の思うところを見たいし、訪れたいと思っていたから。)、正直言うとちょっと嫌な感じがしたんだ。でも、少年だからね。15,6歳の。まず、お前はなんでそんなにうまく日本語を話すんだと感心して驚いたのを覚えている。話を聞くと、その歳で、車と運転手を持ち、西欧から来る観光客や日本人を相手にガイドをしてるだと言う。だから、日本語だけでなく、英語、イタリア語、独語等使いこなすという。それで俺は、その向学心や生きる力にいたく感心して、ひとりで旅をするつもりで来たが、その少年に、ガイドを頼むことにしたんだ(勿論、ずっと付きっきりということではなく、基本はひとりで行動し、「一緒に行かない?」と思ったところは一緒に行くという感じだ)。少年の名前はジバン。その名前は忘れない。少年には、それだけの資金を出してくれる人がいたということであるとも思う。それは両親と特に、当時、日本の有名デパート(伊勢丹のような)に上質の曼荼羅を輸出して商っている叔父さんであったと思う。何度かジバンと会っているうちに、紹介されてわかったことである。おそらくジバンは多くの観光客を叔父さんの店に連れて来たんだろう。自分だって、ジバンにほだされて、曼荼羅を買っちゃったくらいだから。勿論、よくデスカウントしてもらって。ジバンと一緒に、バクダプル(カトマンズの古都)に行ったときは、ジバンの友達にも会い、一緒に街を歩いたり(大人が-自分も今より随分若かったが-少年三人と古い街を歩いているわけだけれども)、従兄を紹介され、彼の友人も一緒に早い夕飯を賑やかにみんなで食べた。移動はジバンの持っていた車だったか、俺が街でレンタルしたバイクだったか覚えていないが、運転手には悪いことをしたかもしれないけれど、車の記憶がないので、バイクであったと思う。ある時は、「ジバン。ナガルコットに行こうぜ!俺のバイクで。」と言うと、なんの躊躇もなく、バイクの後ろに乗った(勿論、安全運転を心がけていた)。ナガルコットの山の中腹でバイクを止めた時、ジバンは後ろに乗ったまま「不用心ですね。バッグのファスナーを開けたままにしておいちゃ、だめですよ。」と言った。2回くらい村や売店のあるところで休んで、山頂近くで俺のホテルを決めると、その地元のバイクに乗せてもらってジバンは帰ったと思う。宿主は若者で、朝早くに俺を叩き起こして、そこから見えるエベレストを拝ませてくれた。肉眼で5センチくらいだったかな。そのブロック造り系のホテルでは、フランスから来たブラックの女性写真家と会って、ずいぶんと写真のことを話したりしたのを覚えている。彼女はバライタ紙に写真を焼いていた(今思うと、この土地の出会いは、その後、しばらくして、自分は、フランスではなく、ブラックの国やスパニッシュを話す国に訪れることになることの暗示のような気もするんだ)。ジバンは、俺が帰る日(チケットを出す時に一悶着あったのを覚えている。昨日、改めてリコンファームまでしてあるのに、席が空いてないというのだ。ちょっと憤慨して-今思えば、そこで憤慨した自分はまだ若かったなと思う-、日本に帰り仕事に戻らなきゃならない事情を話すと、チケットはすんなり出てきた)、飛行機に乗ろうとすると、予期せず、ジバンは搭乗口で待っていて見送りに来ていた。俺の額に赤い点をつけ、「このまま帰って下さい。」と言ったと思う。そして、俺の首にリースをかけた。若い俺にとっては、ちょっと照れたり、恥ずかしい気のする旅でもあったが、また、金をやっぱり少し余分に使うことにはなったと思うけれども、ジバンに使った金は、惜しいとは思っていない。(旅は、決まった時期に決められた期間でしていたので、同じ土地にもう一度訪れたたら、よりよかったりするだろうなと思ったこともあるけれど、若いころの自分は、次の旅の地へという思いが強くて、同じ土地に訪れることは、ほとんどなかった。)
それから、あとふたつ、いつまでたっても忘れないネパール語がある。これも悪くはとらないでほしいけど、「バデラリヌン」(名前は忘れてしまったが、ジバンの友達-確かスパニッシュの二世だった-が教えてくれた)と「タパインコフォトキチナサクサ」だ。
 

 思わず、旅の思い出を書いてしまったけれど、そういう理由で、ネパール人に親しみを感じるということもあると思うけれども、街で何度も顔を合わして挨拶していると「ナマステ。」、ちょっとチャイ飲んでけみたいなところを思い出すに至っては、やっぱり日本人とネパール人は気質において、どこか似ているのだと思う。

 さて、今日のダンニャバートのセットは、お薦めのバターチキン、スパイスの香りをその甘さとコクでオブラートしたような味。旨い。やっぱり濃いめのチャイも最高。

(^^)/R.  ダンニャバート!






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