『絶対に秘密なんだけど、お客さんにだけは教えてあげる。三十ドルでコルト拳銃が手に入るんだ。中古だけどね。ちゃんと装弾カプセル2ダース付きなんだ。さっきのと合わせて六十ドルだから二丁買える。えっ、人を殺すの買って?いや、僕は人は殺さない。絶対に人は殺さないってば。僕が殺すのは占領者たち、侵略者たちだけだよ。』―『バクダッドの靴磨き』米原万里―より
物騒な話で申し訳ないが、コルト拳銃は、現在、安いもので、50ドル~100ドルくらいで手に入るらしい。しっかりしたものであるならば、120~30ドル出せば、米国では、手に入るらしい。勿論、中古だが。であるから、戦場のイラクであれば、中古の安いものなら、三十ドルくらいで買えるものは、あったかもしれない。
コルトは、手に握ってちょうど収まるくらいの小型の自動小銃である。俺たちの世代は、この拳銃の名前には、馴染がある。勿論、実物は見たことは無い。映画の中で見たことはあっても。何故馴染があるかと言うと、学校に上がる前くらいのちびガキの頃、このコルト拳銃のおもちゃが流行ったことがあったからだ。男の子であるなら、ほとんど誰もが、そのおもちゃで遊んでいると思う。コルト拳銃を模ってプラスチックでできた簡易なもので、ピストルの上部に弾倉カバーがあって、そこを開けて、5mmくらいの銀色の玉を入れて、ばね式で引き金をひいて撃つというしくみである。どういうわけか、とにかく流行っていたのだからしょうがない。そんなちびガキには罪は無いだろう。みんな持っていたので、安価であったと思うが、銀色の玉をまとめて入れて撃つというおもちゃなので、当時、銀玉鉄砲と呼ばれていた。
そのおもちゃの拳銃で、「顔は狙うなよ。」くらいのルールで、友達とパンパン撃ち合って遊んでいたのだ。今思うと、俺たちの子供時代は全く過激な遊びをしていたものだなと思うが、先に言ったように、そういうおもちゃを俺たちに与えたのは、大人で、当時の玩具会社が作ったものなんだろう。
それどころか、8mmくらいの色とりどりの玉があって、中に火薬がつまっているんだが、それを壁に当てたり、地面に投げつけると、パンッ!パンッ!と激しい音をたてた。その玉は癇癪玉と呼ばれていた。さらに7cmくらいの細い厚紙の棒の先に火薬がつき、中にも詰めてあって、それをブロック塀等でこすると発火し、投げつけると、そこでババァーン!とはねる。2B弾といわれるものもあった。
そんなわけだから、俺たち遊びは、興に入ると、ズキューン!ズキューン!パンッ!ババァ~ン!てなもんで、まるで、戦場か、ギャングの抗争さながらであった。
そんな遊びをしている子供は、将来、ギャングかなんかになるのがおちで、ろくなもんにはならないと言われるところだが、そういうことでもなく、みんなまともな大人になり、普通の仕事についている。ひとり、友達の兄貴は、機動隊員になったけど・・・。
その後、子供達がそういうおもちゃで遊んでいるのを見たことがないので、おそらく、危険だとか、教育上よくないとかという理由で、発売をやめたのかもしれない。しかし、なんでそんなおもちゃを作り、それを流行らせ、俺たちにあてがって遊ばせたのだろう?戦争はそうやってなんにも知らずに俺たちが遊んでいるすぐまだそこにあったのだ。これも、戦後、怒涛のように押し寄せた欧米文化ナイズの一面であると思う。チャンバラの国にピストルをもたらすというような。今、改めてその遊びを考えると、敗戦国日本に対する米国圧力型の国家的な意図があったのかと考えてしまうところがある。しかし、それは、考え過ぎかもしれない。幸い日本は、国民一人一人が銃を持ち自己防衛をするというような国にはなっていないから。日本というのは、そういう国なのだ(USAよ。わかったか!)。
『バクダッドの靴磨き』に関連して、先日は、イラク戦争について書いたので、今日はコルト拳銃について書かせて頂いた。
現在、子供たちは、ゲームの中で、もっと激しい撃ち合いをしているという現実はあるかもしれない。しかし、実際におもちゃの拳銃を持って撃ち合うのとは、意味合いが違うように思える。
『バクダッドの靴磨き』において、主人公の靴磨きのアフメドは、父、妹、祖母、叔父、母を、兵役、空爆、掃討作戦、作戦ミスの流れ弾で次々に失う。全てを失いひとりになったアフメドは、人間の盾の孤児院に入れられ、そこを抜け出して、復讐のためのコルト拳銃を手に入れるために、靴磨きをしているという話である。
自分の家族が殺されるようなことがあれば、誰しも殺した相手を憎んで恨むと思うし、アフメドの思いというのは、正当化されると思う。常に非暴力で立ち向かって勝利したマハトマ・ガンジーのようなわけにはいかない。戦争があれば、双方で人が死ぬことになり、それぞれの死は、それぞれの恨み、憎しみを生むことになる。ガンジーの非暴力、非戦の方法は、その恨み、憎しみ、報復の連鎖を断ち切ろうとする人を超えた英断であったのだ。
この小説は、空爆が引き起こす悲劇を現実的に描写し、アフメドの家族に焦点をあて、戦争がもたらす悲劇を浮彫りにしている。そしてそこから生じる「恨み、憎しみ」を現実的に突きつけ、読者に問うているのである。
(^^)/ R.
ありがとう。
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