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続・聖観音の日

   今年に入ってから、なぜ俺が、三回、浅草の浅草寺を訪れたかというと、実は、正月に 何年か持ちっぱなしになったお札を返しながら、初詣に行くと決めた時、お袋が「それなら、お前は木札をもらってきな。それから、金の鈴ももらってくるといい。」というようなことを言ったからだ。木札はどこの寺にもあると思ったが、「金の鈴」なんてあったかなぁと思って、調べてみると「金龍の鈴」という根付の鈴があるのだ。もともと今回行ったら、木札は頂いて来ようと思っていたが、お袋がそう言うなら、尚更そうしようと思ったわけである。

ところが、正月に行った時には、以前、お袋を車椅子に乗せて行った時に頂いたお札を返し、参拝するだけにとどまってしまった。僧侶の勤行の時間を逸してしまったからだ。また、「金の鈴」も売り切れで頂くことはできなかった。二回目に訪れた時は、先の「聖観音の日」に書いた通りで、有難く木札は頂けたが、「金龍の鈴」はやはり売り切れなのだ。それで、浅草寺、浅草の観音様に三度目のお参りをすることになったのである。予め聞いておいて、その日にもう一度電話してみると、それなら取っておくから、授け処で、名前を言ってくれということだった。どのくらいで来ますかと言うから、二時間くらいかかると言って出た。

いつも浅草寺を訪れるときに思うのだが外環で外回りで攻めて、言問橋あたりで降りるというのが、一番いいルート(かつて浅草寺参りで走っていたルートなんだが)だと思うが、俺のナビ子は、何度言っても、首都高を使って都心を抜けるルートを選ぶのだ。空いていればいいんだが、混んでいる時は、下道を走りたくなるようなルートなのだ。また、日頃走り慣れていないと、レーン選択が面倒なルートなのだ。その度に首を傾げる。このルートは都心を走り、悪くないとは思うが、なんか遠回りな気がするし、それにこのルートのレーンを記憶したとしても、日常的に走るわけではないから忘れてしまうし、なんか無意味だなぁ。ナビ子は何を考えているんだろう?と。その都度、まっ、いいやということになるが、今回は、案の定混んでいて、30分ほど遅れをとった。

観音様をお参りして、授け処に行き、「金龍の鈴をください。電話した何某です。」というと、巫女さんはニッコリと笑って、鈴を渡してくれた。その日は何故だか、鈴は売り切れにもなっていなかった。鈴を手にすると、なにかホッとして、肩の荷が少しおりたような気がした。と同時に、お袋を思い、俺は涙ぐんだ。そして俺は、お袋はとにかく三度ここに俺をよこしたかったんだなということに気づいた。理由はわからない。「観音様。しょっちゅうは来れないけど、また来るから、よろしく頼む。」と心で言って、浅草寺を去った。

 それから、「お~さ~なぁあなじみィのかんのんさぁ~まぁ~は~」と心で歌っていたか、いなかったかは覚えていないが、おにぎりやに行ってみたが、またここも閉まっていて、前回、雨も降りだして、寄らなかったもっとも浅草っぽいようなcaféに立ち寄って帰った。

帰りながら、二つの謎を運転しながら考えた。

ナビ子のやつがあのルートを選ぶのは、いつ俺がどこに行きたくなってもいいように、そのルートを選んで、覚えておけということなのだろう。そして、三回の聖観音参拝はそのこと自体に何か意味があるか、或いはお袋が、もしお前が都心に出たいと思った時は、幼い、また娘のころのお袋の家族に馴染のある、今はここ(浅草)がいいと言っているのだろうと思った。確かに浅草人の気質っていうのは(江戸っ子気質というのか)、俺には疲れないっていうことはある。
 
(^^)/R. Thank You !

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