お袋が二階のベランダで布団を干していた時に、一階にかかった電話を取ろうとして、階段を一段踏み外して、大腿骨を骨折した時、入院中のお袋を毎日見舞ったが、職場でそのことを話すと、足腰の神様があるということを、同僚のNが教えてくれた。「効きますかね?」というと、「効くよ!」と言った。その言葉を信じて、俺は夢中で秩父から高麗川沿いに車を走らせ、正丸峠を越え、飯能に至り、深い山の頂上にあるその寺に車を走らせた。そして、辿り着いたのが、子の権現天龍寺である。
病院の担当医が良い医師で、お袋の足の手術は無事に終わり(お袋の大腿骨はボルトナットでとめられた)、近所は、入院していて入院ボケが始まったお袋を見て、「はぁ、出てこねぇよ。」というようなことを言っていたらしいが、その後お袋のリハビリを担当してくれた医師がまた良い医師で、自身の熱意とともに、お袋は見事歩けるようになるまでの復活を果たした。お袋の入院ボケだが、毎日、家事や様々なことで動き回っていた人が見知らぬ一部屋に動くこともなくじっと閉じ込めらると、入院ボケということがおこるのだろう。その時、どうしたものかとさんざん考えた挙句、看護婦に「お袋を、一度家に連れ帰ってもいいかな?」ということを提案して、俺はお袋を抱きかかえて車に乗せて、お袋を家に連れて帰った。すると、お袋はすぐにボケから回復した。その後は、リハビリ等も始まり、そういう症状になることは全くなかった。
お袋の骨折に際しては、病院の主治医はじめ、リハビリの担当医、スタッフ、そして、子の権現の神様に心から感謝をしている。退院の時、「よかったねぇ。」という看護婦の声に、ニコニコ顔だったお袋のことをよく覚えている。本当に嬉しそうだったな。
そうして、その機会に家の中の段差も無くして、手すりも設置し、お袋が安全に家のなかで過ごせるようにした。しばらくの間、お袋は骨折から見事に復活を果たして、健康な日々を送っていた。それから、電話には極力気をつけるようにした。鳴れば慌てて出たくなるのが心情だから。
しかし、予期せぬできごとというのは、突然やってくる。お袋を近所のパーマ屋に連れて行き、「終わったら、電話してくれる?すぐ迎えにくるから。」「いいよ。終わったら送っていくから。」という言葉に、一度、「いいよ。迎えに来るよ。」と言いながら、「送っていくよ。」と二度言われた言葉に何故俺は従ってしまったのだろう。お袋はパーマ屋の送る軽自動車の助手席に乗り家に戻る途中で、左側から不注意に飛び出したこの土地のばあさんが運転する大型のクラウンのような車が激突し、お袋の乗った車は更に右側の塀に激突して、塀は崩れ、車はほぼ大破した。俺はその事故が起こった時に、家でレコードを聴いていて、全く気がつかなかった。救急車が来た音は聞いたが、よく救急車はこのあたりは通っているので。
まさか、お袋が事故に巻き込まれたとは思ってもいなかった。病院から帰ってきたときに、お袋は歩いて家に向かいながら、「Rちゃん。こんなんなっちゃったよ。」と言ったのを覚えている。頭部をひどく打ち、頭部にひどい怪我を負っていた。それから、お袋の頭部の怪我を消毒し、カーゼを張り替える日々が続いた。お袋を診た医師は、今は症状はでていないが、年寄りの頭というのは、極度の衝撃を受けると脳自体が影響を受け、後になって出ることが多いということを話していた。どのくらいかと訊くと半年くらいということを言っていた。半年後くらいにもう一度、お袋の脳の検査をしてもらったが、その時は、異常はなく、お袋自身にもそんなに以上は見られなかったと思う。それで、検査費を支払ってもらうということで、先方の保険はうち切られた。
それから、しばらくしてである。お袋の右腕と右足の麻痺が始まり、さらにお袋から言葉が消えていったのは。あの時の衝撃がお袋の脳を破壊していたのである。俺はお袋がかわいそうで、悲しくて悔しくて、人を恨む気持も起こったが、お袋自身もそういうことは望まないだろうと思い、人を恨むことはやめにした。
子の権現へは、最初ひとりで、その後お袋が骨折から回復してからお袋と一緒に二度目、さらにお袋が車椅子を使うようになってからまたお袋と一緒に三度、お参りをしたと思う。今回のお参りはお袋の思い出を尋ねてということもあるのだが、自分の介護生活が終わった時、介護中行けなかった神様へのお礼のお参りとして訪れたというわけである。勿論、今回は、自分の足腰の健康のお願いもするために。
(^^)/R. ありがとう。
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