空海の立体曼荼羅を見た。
実際に何体もの仏像をまじかにして、全体を見渡した時、確かに不思議な空間を醸し出していた。当時、空海の情熱をまじかにみた人々は、きっと畏れを感じたにちがいないと思った。それ以外は何も特別なものは感じなかった。しかし、どうか失礼だなと思わないで頂きたい。
ひとつきほど前に、「世界の中心で愛を叫ぶ」のテレビドラマ版を観た。
主人公は、愛する人が不治の病に侵されたことを知ってから、空を見上げ、空の写真を撮る。愛する人の為に空の写真を撮る。こういうストーリーは映画版にはなかったと思う。それゆえ愛する人も、その状況下で新たに芽生えた空への憧れを募らせる。本当であるならば、それはあまりにも無謀な試みで、医者や看護婦を伴っても、なお困難な旅であったと思うのだが、主人公は、愛する人を連れて、かつてみたオーストラリアの青空を見る旅に出る。それは、若さゆえ、愛するゆえの無謀として、許されるかもしれない。しかし、二人は旅立つ空港で、悲しくも座礁してしまう。
空に憧れて、空に何かを求めて空を見るという、また空景を撮るという行為は、自分は、愛する人を失った者が、とる行動、行為だと今は実感としてわかっている。かつて、荒木経維が愛する妻を失って、空景を撮ったように。
このセリフも、映画版にはなかったと思うが、座礁の場面で、愛する人が言う。
「あの世なんてないよ。」そして「天国なんてないよ。」と。さらに「ここが天国だよ。」と。
自分は、空景を撮る主人公や、「あの世も天国もない。ここが天国だ。」というようなストーリーやセリフを書く人というのは、見えている人、わかっている人が書いているんだな、そういうことを感じてしまう。
空海は、ドラマの愛する人が言った「あの世」や「天国」の全てを垣間見て、この国の守護や救済のために、その道を志す者には、系統順序立てて仏教、仏道を体系化して、洗練させていった。自分の独学の求道、究竟というものは、空海の爪の垢ほどにもならないのかもしれないが、空海が形造ったものが、実は全く的を得ているということがわかるのだ。自分は空海ほどの人物は、生きながらして、その全てを垣間見たはずだと信じているし、また、信じたいのである。そうでないとするならば、少なくとも空海は、想像ではない自分の体現からそれがわかっていたし、見えていたのだと思う。いや、違う、確かにその時、空海はその世界と世界の全てを見据えていたと思う。空海を語るとき、そこには、仏陀や空海、多くの僧侶や修行僧が追い求めてきたものがあり、それは全ての理屈も理論も、次元すら超えたものであって、宗教という言葉を使うとするなら、その言葉はあまりに幼なすぎると思う。
そして、ドラマの愛する人にとっては、あなたのおかげで再び夢と憧れを抱け、自分があなたとともにそこに向かおうとしているという意味だと思うけれども、確かに「天国はここにある。」と自分も思うのだ。別次元の話になってしまったかもしれないけれども。
生の始まりで暗く、終わりでまた暗いと言い残し、入定、入滅した空海のそれが、その時の実感であったのだろう。おそらく入定するときの空海は、衰弱しきってやせ細り小さく見えたかもしれないが、自分はそのとき、巨人が逝った、逝ってしまったと思っている。そして、伝説のとおりに、高野山の奥之院で今も入定し続け、世界の平安、平和、救済を願い続けているのであろう。或いはそこから現在に至る重い歴史の過程で、空海の悲願は達せられ、空海は既に高野山の奥之院から、金剛峯寺から世界と一体化し、世界となり、世界と人々を見守り続けているのであろう。自分が空海論を語るとしたなら、いくら書いてもたりないと思うが、端的に言わせて頂けば、このことが、真言密教の神髄、全てであるとも思うのだ。
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