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桜島 Ⅵ :追記 - 熊本~京都~沼津編 -

 桜島に別れを告げた後、九州で一軒立ち寄りたい店があった。それは、豚骨ラーメンの草分け、桂花拉麺の本店である。熊本にある。実は、最近、東京に仕事で行った際、新宿で10数年ぶりに懐かしの桂花ラーメンを食べたのだが、味が違っていると思ったからだ。こういう味じゃなかったなぁと思ったが、随分年月が経っているので、自分がその味を忘れているのかもしれないと思い、まっ、いいかということになっていたのだ。しかし、今回、鹿児島に行く際、帰りに熊本の本店に寄ってみようと思っていたのである。

 熊本の街を走るのは初めてだったが、特に強い印象はない、どこにでもある市街地のような、もし熊本城が見えたなら、違う印象を持っていたかもしれない。桂花ラーメンの本店は市街地の賑やかな路地にあった。ターローメンのチケットを買い、カウンターに座る。店はそこそこ混んでいる。ラーメンが出されて、香りを感じ、スープを飲む。もう一杯スープを飲む。この匂いとこのスープの味だよ。桂花ラーメンは。スープはまろやかでコクがあり、どこかミルキー、とろける豚肉が、硬めの麺にからんで食感がいい。桂花ラーメン熊本本店には昔のままの味がありました。

 
 
 行きは、中間地点の岡山にただ宿泊したが、帰りも同じでは芸がないなと思い、京都、東寺の近くで一泊して休むことにした。勿論、翌日、東寺を観ようと思って。上野で見た空海の立体曼荼羅を東寺にあるままで観たいと思ったからだ。行きは、桜島上陸という遠っ走りの大きなミッションをクリアするという欲求と興奮と緊張感があったせいか、長い走りも全く眠くならなかったのだが、帰路の九州道と山陽道は、もう走り出しから睡魔に襲われて、困ったというより、恐ろしかった。コクっと寝てしまえば、高速道路なので大きな事故になる。対策は、少しでも眠気を感じたらすぐにサービスエリアに入って休む。シートを倒して少し仮眠する(眠れないが)。トイレ休憩、珈琲を飲む。そして、眠気が去るまでは車を出さない。どこのサービスエリアだったか、エスプレッソのトリプル!という手段に出たこともある。エスプレッソのシェイクにダブルのエスプレッソ珈琲でトリプルである。



 初めて訪れた東寺は金堂と講堂だけを見た。写真は一切撮らなかった。なぜかというとカメラのバッテリーを切らしてしまったからである。なんとか充電の方法を考えたが、やめることにした。今日はここは、撮るなということだなと思えたので。金堂の薬師三尊も講堂の立体曼荼羅も圧巻であった。そして、立体曼荼羅はこの状態の方がいいと確かに思えた。上野の展示で、不思議な空間を醸し出していると思ったのは、あれは違和感であったことがわかった。曼荼羅の一体一体の像が一斉にこちらを見て睨みを利かせている状態が自然で、かつてこの状態でこの立体曼荼羅は人々に仏への畏れと敬いを抱かせていたのだ。東寺では不動明王のお札を頂いた。



 さて、沼津であるが、昨年の暮れ初めて訪れた高野山で大雪が降った帰りに、東名を走っていて、確かこの先厚木で渋滞の表示を見て、渋滞を待っているなら、下りて飯(寿司)を食おうと思って沼津で下りた。そうだ回転ずしを探して、安くてうまい寿司を食おうと、港に向かい目的に合う店を見つけたにもかかわらず、いやちょっと歩いてみるかということになって、結局、見栄からなのかなんなのか、高級寿司店に入ってしまったのだ。高い寿司代を払ったわけだが、一貫目以降は美味しかった。しかし、最初の寿司屋に入ればよかったという心残りがあったのだ。そして、また今回もこの先厚木で渋滞の表示が出てるじゃないか、まるで沼津で下りてあの寿司屋に行け!とでもいうように。あの時、最初に入りたいと思った寿司屋がこれだ。

 
 

 
 
ここでも
桜島の火の神
月読みの
木花咲耶姫命
 
そして
お袋が
 
俺を見て
微笑んでいる
 
そんな気がした。
 
 
 
 
(^^)/ R. Thank you !
 
 
 
 
 








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