漱石は、小説「こころ」の下巻「先生の遺書」の中で、その主人公である先生に「明治の精神に殉死する」と言わせている。また、先生は、それ以前に親友のKと下宿のお嬢さんとの三角関係の恋をめぐり、お嬢さんを獲得するためにKを出し抜いて、婚約を下宿の奥さんと決めてしまう。その後、Kは「薄志弱行でとうてい行く先に希望が持てない」という遺書を残して自殺してしまう。先生はお嬢さんと結婚生活を営むことになるが、Kを裏切って自殺に追いやってしまったという罪悪感と寂寞を背負って暮らすことになるのである。ここに、「明治の精神」と「寂寞」という言葉が出てくるのであるが、ここでは、この二つの言葉の意味に拘りたいと思う。
まず、「明治の精神」である。先生は、明治天皇の崩御、そして乃木将軍の殉死の報道を受けて、私も「明治の精神に殉死」しようと思うようになるのである。乃木将軍の殉死は、明治天皇に命を預けた乃木将軍が、己の職務の中で明治天皇の崩御に殉ずるというものであり、公的な意味を持つものであると思うし、当時の日本の軍人の魂のあり方として、理解、納得ができる人は多いと思う。その乃木大将の殉死とシンクロナイズさせて先生の自殺を描いているところに、漱石のトリックがある。どういったトリックかというと、実際は、個人的な罪悪感と寂寞に苛まれて先生は自殺するのであるが、その先生の自殺を乃木将軍の殉死と重ねて描くことによって、美化するというトリックである。そして、読者に先生の死は美しいと思わせてしまうのである。実際、友人を騙して死に追いやってしまったという罪悪感を背負い、その罪滅ぼしのために自殺する先生は、美しい?のかもしれない。しかし、乃木大将の殉死とは、公的と私的という大きなレベルの違いがあるだろう。嫌な言い方をするかもしれないが、乃木将軍の殉死が広義を持つならば、先生の自殺は、狭義であり私義であり、エゴとさえ言えるのであろうと思うのである(寧ろ罪滅ぼしとしても罪悪感と寂寞に耐えながら、お嬢さんを守って生きるという美しさもあるだろう)。さて、それでは、先生の言う「明治の精神」とは、いったいどんなものなのであろうか?維新、文明開化、啓蒙・・・という新旧が入り混じる混沌の中で発展を目指して快活、活発であった時代。そういう時代の「日本帝国主義を軸とする、封建的かつ、近代化(欧化)の精神」と言ったらいいのだろうか。明治が終わった時、この先、生きていても畢竟時代遅れとなるから、その精神とともに死のうと先生は自殺の言い訳(理由)として考え始めたというわけである。
次に「寂寞」である。寂寞とは、ものさびしくて、気持ちが満たされない様子と辞書には書いてある。先生が常に抱えていた「寂寞」は、まず、結婚以前の先生の境遇からくるものであり、Kを自分が自殺に追いやってしまったという罪悪感からくるものであり、またその秘密を誰にも話すこともできない、勿論、自分の伴侶にさえ話すことができないというどうしようもない孤独感ということになると思う。
(^^)/R. ありがとう!
まず、「明治の精神」である。先生は、明治天皇の崩御、そして乃木将軍の殉死の報道を受けて、私も「明治の精神に殉死」しようと思うようになるのである。乃木将軍の殉死は、明治天皇に命を預けた乃木将軍が、己の職務の中で明治天皇の崩御に殉ずるというものであり、公的な意味を持つものであると思うし、当時の日本の軍人の魂のあり方として、理解、納得ができる人は多いと思う。その乃木大将の殉死とシンクロナイズさせて先生の自殺を描いているところに、漱石のトリックがある。どういったトリックかというと、実際は、個人的な罪悪感と寂寞に苛まれて先生は自殺するのであるが、その先生の自殺を乃木将軍の殉死と重ねて描くことによって、美化するというトリックである。そして、読者に先生の死は美しいと思わせてしまうのである。実際、友人を騙して死に追いやってしまったという罪悪感を背負い、その罪滅ぼしのために自殺する先生は、美しい?のかもしれない。しかし、乃木大将の殉死とは、公的と私的という大きなレベルの違いがあるだろう。嫌な言い方をするかもしれないが、乃木将軍の殉死が広義を持つならば、先生の自殺は、狭義であり私義であり、エゴとさえ言えるのであろうと思うのである(寧ろ罪滅ぼしとしても罪悪感と寂寞に耐えながら、お嬢さんを守って生きるという美しさもあるだろう)。さて、それでは、先生の言う「明治の精神」とは、いったいどんなものなのであろうか?維新、文明開化、啓蒙・・・という新旧が入り混じる混沌の中で発展を目指して快活、活発であった時代。そういう時代の「日本帝国主義を軸とする、封建的かつ、近代化(欧化)の精神」と言ったらいいのだろうか。明治が終わった時、この先、生きていても畢竟時代遅れとなるから、その精神とともに死のうと先生は自殺の言い訳(理由)として考え始めたというわけである。
次に「寂寞」である。寂寞とは、ものさびしくて、気持ちが満たされない様子と辞書には書いてある。先生が常に抱えていた「寂寞」は、まず、結婚以前の先生の境遇からくるものであり、Kを自分が自殺に追いやってしまったという罪悪感からくるものであり、またその秘密を誰にも話すこともできない、勿論、自分の伴侶にさえ話すことができないというどうしようもない孤独感ということになると思う。
何故、私が「明治の精神」と「寂寞」に拘ったかというと、それは『こころ』の作者の漱石自身が抱えていたものであると思うからである。漱石は、「明治の精神」と明治が終わった「寂寞」を抱えながら、近代的な文学表現として利己主義を追求し、『こころ』を執筆する。そして、『こころ』の中で、自分の代わりに古い伝統的な教えと生き方の化身であるようなKを自殺させ、またどうしようもない寂寞の中で先生を自殺させるのである。そして、プロットの神様、漱石自身は『明暗』執筆中に、大正5年、ほぼ明治とともにこの世を去るのである。絶対から相対へ、則天去私というテーマを残して・・・・。
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