デビットボウイは、5枚くらいLPを持っているだけで、まぁそれで大体わかっているつもりになっていていいと思っているけれども。その5枚は、「ジギースターダスト」「スケアリーモンスター」「ステージ」「トゥナイト」「レッツダンス」。
しかし、俺はジギーから聴いていて、その前後を聴いてないなと思い。ジギーに至るまでの暗中模索のデビットボウイを聴いたり、またそれ以後も詳しくは聴いてないと思いそのあたりを聴いていた。それでわかったことは、ジギーに至る約10年のあいだにデビットボウイは、強いてロックの主流でなく、独自の個性を探し求めて、パントマイムや演劇的なことまでしている。そのファッション性が後にグラムロック発祥に繋がっていくんだと思う。当初、アコスティックギターを弾きながら歌うデビットボウイは、ポップ調であって、いまいちではあるけれども、メロディや曲作りに可能性を感じる。面白いところがある。そのあたりで、「スペースオディティ」のシングルヒットを飛ばす。
が、アルバムは泣かず飛ばず。そして、「ハンキードリー」の「チェンジス」でヒットを飛ばす頃には、アメリカンソウルを取り入れ、ニューヨークアンダーグランドで人気を獲得し始める。
「ジギースターダスト」は、その10年間の結晶で、ロックとポップスを全く上手く融合させて、独自のメロディと歌い方と歌詞で他にない個性を築き上げ、一世を風靡する。まぁ、たどり着きたかったところに行き着いたというわけだ。ところが、デビットボウイは、ジギーにおいては、これまでの結晶を姿にしたジギーを自分自身で演じていたというわけだ。そこで、ジギーのライブツアーの最後に、「ロックンローラーの自殺」を歌い、ジギーのバンドユニットを解散してしまう。「みんなこれまでありがとう。忘れない。」と言って。ジギーを終わらせて、デビットボウイとしての活動に移る。そして、「アラジンセイン」において、グラムロックを確立する。
今回の『デビットボウイを聴いていた』で、特に改めて新たに心に残ったデビットボウイのナンバーは、「スペースオディティ」「チェンジス」「ロックンローラーの自殺」「アッシュズトゥアッシュズ」だ。
だからどうしたと思うかもしれないけど、独自の表現を求めて、ジギーに至るデビットボウイに感動したんだ。世にあるサクセスストーリーというものは、得てして暗中模索、悪戦苦闘の末、成功に至るというものが多いけれども。歴史的現在で、「よかったなぁ、売れて。」とまで思った。
そして、そこにたどり着いたデビットボウイは、スターとは?と問われて、豪華な精神病棟と答えている。このひとことが印象的だな。そういう自分にも嫌気がさしてしまう。しかし、もう既に、デビットボウイは女王様と暮らしているようなもので、次から次に要望、期待をつきつきられ、求められている。
デビット・ボウイのジギーへの道は、涙ぐましくもあり険しくもあったけれども・・・。なぜなら、ロックは全盛期で、進化を続けている。既にハードロック、更にメタルも発祥している。そこにポップスの全盛期が重なり、またポップスとロックの融合がありの時代であった。その中で、単に流れに乗るということでなく、どこにもない新しい個性を見出すというのは、そして時流に乗るというのは難儀な道を行くものであったと思うからだ。その時代は、ブルースからロックンロールの発祥、エルビスからビートルズ、そして、ローリングストーンズ、クリーム・・・という流れの中から発祥、進化してくるそれら全ての音楽的な全盛期であったと思うし、その時代を黄金期と呼ぶことができると思う。そして、少なくともデビット・ボウイはジギーに至る道を楽しんでいたと思う。
その黄金期の中で、デビット・ボウイの『ジギー・スターダスト』は、一際異才を放ち、正に新星の輝きを放っていたと思う。デビット・ボウイが歌ったように、地上を離れ、炎を放って輝きながら飛び立っていく宇宙ロケットというようなイメージである。先に、それはロックとポップスの融合と簡単に言ってしまったが、例えば、たくさんいる中で、自分が好きなロッカーで言えば、ブルース・スプリングスティ―ンもまたロックとポップスの融合であると思う(ブルース・スプリングスティーンの場合は、そこにカントリー要素が加わっている)。しかし、二人は全く相反するような音楽を掲示しているのである。二人がポップス路線を行く理由は、そこに自分が表現したい音楽があるとともに、より多くの人に受け入れられる形でロックを提供したいという思いからであろう。ハード・ロックやメタル、パンクというとそういうわけにもいかないと思う。
デビット・ボウイとブルース・スプリングスティーンの路線は同じなのに、何故、こうまで内容が違うのか。ブルース・スプリングスティーンはポップス路線を行きつつ、そこに至極アメリカ的なカントリーを加味して心地よく激しく歌う。デビット・ボウイはというと、ポップス路線を行きつつ、そこに音楽的な様々な音の実験の成果を加味してオリジナリティーを持った歌い方で語るように叫ぶように歌うと言ったらいいと思う。よく聴けばわかるが、この時代にこんな音を出してたんだというような音作りの工夫がある。しかも、デビット・ボウイはイメージも含めて、独自の道を行くためによくあるハード・ロック的なものを嫌う(ロックをやっているので、音楽的にハード・ロック要素が全くないということではない。しかし、ハード・ロックの根幹にあるブルース要素は少ない)。そこで、メイキャップやファッション、歌詞、ボーカル・ボイス、さらに歌い方に至るまで、ある意味では奇抜なまでのイメージ作りをしていると思う。
そして、新星の如くロック界に生まれ出たのが、ジギーという類稀なオリジナリティーを持ったキター弾きの歌うたいのロッカーなのである。そしてそのロックの歌うたいが引っ提げていたのが、ロック界に今も燦然と輝きを放つ『ジギー・スターダスト』というアルバムである。今、振り返って思うと、このアルバムは、デビット・ボウイのその後の進化と発展の活動の礎となっていると思うし、ここで完結したデビット・ボウイの全てだと言ってもいいような気もするのである。
ロックはとうに死んだ。
ジャズも死んだ。
・・・・・・・・。
もう、聴くものは何もない。
と嘆いているあなたへ。
(そりゃ、俺だって何だか何故だか
今日は聴きたいと思うものが何もないな
と思うことだってある)
俺たちは
その黄金時代を生きて
それを聴いてこれたということを
幸福だったとまず俺は思う。
それから
その日の気分従って
LPに針を下ろしたり
CDを聴いたりしていると
あれ?
そこんとこは
聴いてないんだよな。
とか
そこのところはどうなんだろう?
何を考えてたんだろう?
どう聴いて
どう理解すべきかななんて考えてみたり
というようなところがあったりして。
ロックやジャズの黄金時代は
未だに俺たちに
十分聴く楽しみを残してくれている。
と思う。
(^^)/R. Thank You !
おまけ:
『Ashes to Ashes』の別解釈
灰は灰に、ファンクはファンキーに
We know Major Tom’s junkie
我々はトム少佐がジャンキー(ヘロイン中毒)だとわかっている
Strung out in heaven’s high
彼は天国の高みに留まることをひきのばしつつ
Hitting an all-time low
いつも低調に見舞われている
灰から生まれ出たものは灰に還れ。そしてファンクはファンキーに。ファンクは、恐怖、臆病者である。恐れや臆病から生まれ出たものは、やはり、ファンキー、つまり、ブルース調、ブルーな場所に還る。トム少佐は高みの幸福を味わいながらも、いつも憂鬱である。
My mother said ,to get things done
僕の母は言っていた、「目の前にあることをやりなさい。」
You’d better not mess with Tom
そして「トム少佐を台無しにしない方がいいわよ。」と。
(^^)/R.
コメント
コメントを投稿