その翌日は
ホウレン草のカレー
ポパイみたいに
元気が出るように
しかし
ダイエットとしては
少しご飯が多すぎた
かな
それにいつもの
BTOサラダ
そして
カレーに合う
自家製ピクルスは
胡瓜と茄子とチビピーマン
キャベツの味噌汁
椎茸入り
・
・
・
コロナウイルス対策の
緊急事態宣言下
で
ひたすら
毎日
自分で
男のひとりめしを
自分のために作っていると
なんだか
妙な気分になる
それは
兼好が言った
「あやしうこそものぐるほしけれ」
とは
また違う感じだ
俺は
お袋が無くなった後
一年くらい
復職の仕事待ちで
家の
ベランダの工事や
塀や家の外壁の塗装をしたり
伸び放題の庭木の剪定を
したり
お供え用の菊の畑や
ユリの小さい畑を作りながら
母の供養のために
真言密教の勤行を
三樒をもって
熱心におこなっていた
その日々に
何だか戻されるような
感じである
(しかし
食のことを言うならば
何かに書いてあったということでなく
49日までは全食を
100日までは
その半量を
お袋と仏に
捧げていたので
一人でご飯は食べていたが
自分だけのために
((母の介護中も
勿論自分で作ったものを
自分で食べていたが
その時はひとえに
母を思い母のために作った食事を
自分も食べていた
そっくり同じものを食べていたということではなく
母には食べやすいように手を加え
自分は手を加えていないものを
食べていたということである))
食事を作っていたのとは
純粋には違うと思う
自分の気持ちからということもあるが
それが正しいと思えたのである)
コロナ対応の
緊急事態宣言下においては
三密は避けよとしているのが
内容は違うが
三密という言い方は
なんとかならないか
と
思ったものである
あの時は
身口意の三蜜を旨として
経のひとつひとつを
自分で解釈しつつ
無心に勤行を行っていた
目的は
母の供養と成仏道
であった
そうすると
次第に
それは
兼好の言う
「あやしうこそものぐるほしけれ」
を越え
自分の身口意の三蜜
は
次第に
研ぎ澄まされていった
そんなことを
思い出したのである。
今の状況を思うと
神も仏もない
という言葉があり
その言葉を
思う人もいると思う
無慈悲なことや
惨い悲惨な出来事
理不尽なことがおこったときに
我々は言う
それは
我々が
神と仏の存在を信じているからこそ
言うのであろう
しかし
このコロナウイルスの状況は
神や仏の仕業ではない
戦争と同じように
人の仕業であると思う
R.
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