2年ほど前、インド好きの若い同僚とインド料理を食べに行った時、「若いころ、インドに行こうと思ったことがあるけど、今は行くべきではないという気がして、というか、今インドに行ったからとてつまらないと思ったんだ。なぜならばインドは当時ちょっとブームになっていて、もし行ったとしても予め自分が本で読んだり、写真で見たインドをただ確認にいくだけのように思えて、それは愚かな旅だろうと思ったからだ。そして、アジア、中南米の旅に出たんだ。それでインドに行きそびれちゃったんだ。今からでもインドに行ってみようかなと思うんだけど、どうかな?』というような話をすると、若い旅好きの同僚は、「カルマでインドはそこに来る者を呼ぶと言います。今、インドに呼ばれてるのかもしれないですね。」というようなことを言った。それを聞いて面白いことを言うんだなと思った。
現在、頸椎の治療中で、右足の薬指を骨折し、コロナウイルスの脅威の中、日々仕事に出ていると。先になにもこんな試練しなくてもとつい泣き言を吐いてしまったが、入浴するというこの生活の一コマを取り上げても、右足の薬指に添え木をして包帯を巻いてある上に、サランラップを巻いて輪ゴムで止める。さらにその足にレジ袋を履いて縛り、その上から紐でそのレジ袋を縛る(これが自分が見つけた右足の包帯を濡らさない最良の方法だからだ)。そして、ロボコップのように浴室まで歩いていき、素っ裸になって身体を洗い、かつてお袋のために浴室、浴槽まわりに取り付けた手摺(と言ってもお袋は一人で風呂に入れるということは勿論なかったが)にしがみついて足を濡らさないように湯船に浸かり、またしがみついて湯船から上がる無様な自分を思うと、東洋哲学的で神秘的な響きを持つ「カルマ」という言葉からは程遠い気がするのだ。
話をもとに戻すと、自分は若い日の旅において、アジアや中南米の旅については実を言うと、本当に呼ばれてる気がして、何かに待たれているような気さえして、「三里に灸すうる」より早く旅立ったものだった。しかし、その頃、インドには呼ばれているという気は全くしなかった。そういう気がすれば既に自分はインドに旅をしていた筈だから。そして今もインドに呼ばれているかというなら、何故かそういった気も感じも起こらないし、無いというのが事実である。いつしかインドに行く時期を逸してしまったのかもしれない。そこに行くべきとか、行く必要があるという思いはあっても呼ばれているという気は全くしないのである。
そうして、ファストフードに飽きてしまって、ランチで今日も、好きなインドカレーとナンを食べながら、インドに関してどう考えることにしたかというと、行くべき時が来たなら、「カルマ」、或いは「大いなる意志」がそこを指し示すだろうと思うことにしたのである。その時が二千年の夏、大インドに旅立つ時であるんだろうと。大いなる意志に導かれて・・・。でも、なんだか、こんな言い方をするのは、ちょっと大袈裟だな。
ただ・・・、今、インドに強く呼ばれているという感じはないけれども、確かに自分の旅の憧れの地であった仏教発祥の地に思いを馳せると、灼熱のインドの太陽が思い浮かび、その下を雑踏、人込みに紛れて汗まみれになって歩く自分が想起される。その図を思う時に、自分はやはりインドに惹かれていると思うのだ。
現在、頸椎の治療中で、右足の薬指を骨折し、コロナウイルスの脅威の中、日々仕事に出ていると。先になにもこんな試練しなくてもとつい泣き言を吐いてしまったが、入浴するというこの生活の一コマを取り上げても、右足の薬指に添え木をして包帯を巻いてある上に、サランラップを巻いて輪ゴムで止める。さらにその足にレジ袋を履いて縛り、その上から紐でそのレジ袋を縛る(これが自分が見つけた右足の包帯を濡らさない最良の方法だからだ)。そして、ロボコップのように浴室まで歩いていき、素っ裸になって身体を洗い、かつてお袋のために浴室、浴槽まわりに取り付けた手摺(と言ってもお袋は一人で風呂に入れるということは勿論なかったが)にしがみついて足を濡らさないように湯船に浸かり、またしがみついて湯船から上がる無様な自分を思うと、東洋哲学的で神秘的な響きを持つ「カルマ」という言葉からは程遠い気がするのだ。
いやこれはもっと土臭いような大地(アース)や世界(ワールド)、自然(ネイチャー)というような言葉の方がしっくりくるような気がする。「カルマ」とは「業」と訳され、現在の環境を決定し、未来の運命を定めるものとしての善悪の行為という意味である。それより寧ろ、自分の意志という言葉から連想される「大いなる意志」というような言葉の方がしっくりくる気がするのだ。The Great Willである。それは「世界」とも「宇宙」ともとれるかもしれない。しかし、自分のささやかな意志から手繰り手繰ってそこに繋がっていくというような。或いはそこから繋がってくるというような。
話をもとに戻すと、自分は若い日の旅において、アジアや中南米の旅については実を言うと、本当に呼ばれてる気がして、何かに待たれているような気さえして、「三里に灸すうる」より早く旅立ったものだった。しかし、その頃、インドには呼ばれているという気は全くしなかった。そういう気がすれば既に自分はインドに旅をしていた筈だから。そして今もインドに呼ばれているかというなら、何故かそういった気も感じも起こらないし、無いというのが事実である。いつしかインドに行く時期を逸してしまったのかもしれない。そこに行くべきとか、行く必要があるという思いはあっても呼ばれているという気は全くしないのである。
そうして、ファストフードに飽きてしまって、ランチで今日も、好きなインドカレーとナンを食べながら、インドに関してどう考えることにしたかというと、行くべき時が来たなら、「カルマ」、或いは「大いなる意志」がそこを指し示すだろうと思うことにしたのである。その時が二千年の夏、大インドに旅立つ時であるんだろうと。大いなる意志に導かれて・・・。でも、なんだか、こんな言い方をするのは、ちょっと大袈裟だな。
ただ・・・、今、インドに強く呼ばれているという感じはないけれども、確かに自分の旅の憧れの地であった仏教発祥の地に思いを馳せると、灼熱のインドの太陽が思い浮かび、その下を雑踏、人込みに紛れて汗まみれになって歩く自分が想起される。その図を思う時に、自分はやはりインドに惹かれていると思うのだ。
R.
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