今日はゆっくり起きて、雨なら墓参りは延期しようと思っていた。朝食を食べおわって、CDチェックなんかをしていると、この夏初の蟬が鳴き始めたので、ここは墓参りに行って来ようということになった。昨日、食材がほとんど尽きたので、買い出しに出たときに、本当に久しぶりに家の仏のお供えの花も買った。庭のユリも菊も花が尽きてしまったので。それで先の親父思いの経に続いて、般若心経を唱えて勤行をした。その時に、明日、墓参りに行くから、その時だけでも雨をやましてくれる?とお願いした。お袋が亡くなってから何年か毎日欠かさず勤行を続けてきて、薬指の骨折を理由にひと月くらい勤行をやめていたけど、何年か続けていた時に、気持ち自体がマンネリ化するということはなかった。途切れた理由は薬指だけれども、実は俺は必ず毎日勤行をしなければというこだわりはない。だから、ここらで一回やめてみるのもいいかもという思いもあったからだ。
久しぶりに唱える般若心経はどこか新鮮さを感じた。
帰りながら、何ということもないかもしれない些細な蟬の出来事にはどんな意味があるんだろう?と考えていた。家に着いて、小玉スイカを家の仏にお供えして、食べようと思う頃、あぁそうか、俺と仏の世界はこんなふうにつながっているんだからなと伝えてくれたのか、と気がついた。
それは誰にでも起こっていることかもしれないけれども、気づかないだけのことかもしれない。そう俺は思う。また、偶然とも、考え過ぎともとることはできるからね。でも、蝉が孵化した時から、雨が降っていても蝉が鳴いてつかの間雨がやみ(墓参り中は全く雨に降られなかった)、俺がそこにその日に訪れることが、わかっていたんだな、ととることもできる。
久しぶりに唱える般若心経はどこか新鮮さを感じた。
墓の除草は毎月やっているので、草がはびこることはない。通り道の草をゴミ袋ひとつくらい除草してから、花を供えて、今日は姉が送ってくれた線香をあげて、手を合わせる。いつも親父にはボスの缶コーヒー、お袋にはお茶かミルクティーを供える。それで、一服しながら、俺も親父と同じボスの缶コーヒーを飲んでいると。唐突に、「なんで今日、墓参りに来たんだ?」という仏の親父らしき声が聞こえる。「ん?蟬が鳴いていたから、大丈夫だろうと思って。」と答える。それで何気なく墓の後ろに重ねてある古い塔婆を見ると、その先に蟬の抜け殻がとまっていた。
帰りながら、何ということもないかもしれない些細な蟬の出来事にはどんな意味があるんだろう?と考えていた。家に着いて、小玉スイカを家の仏にお供えして、食べようと思う頃、あぁそうか、俺と仏の世界はこんなふうにつながっているんだからなと伝えてくれたのか、と気がついた。
それは誰にでも起こっていることかもしれないけれども、気づかないだけのことかもしれない。そう俺は思う。また、偶然とも、考え過ぎともとることはできるからね。でも、蝉が孵化した時から、雨が降っていても蝉が鳴いてつかの間雨がやみ(墓参り中は全く雨に降られなかった)、俺がそこにその日に訪れることが、わかっていたんだな、ととることもできる。
R.



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