昨晩、デビット・ボウイのライブを観ながら考えた。というより自分が持っているデビット・ボウイ像をもう一度頭の中で整理していたという方が正しいかもしれない。デビット・ボウイはホールのようなライブ会場で楽しそうに歌っていた。その光景が俺はなんだか嬉しかった。ボウイについては先にも書いたことがあるが、「ジギー・スターダスト」で一度完結して、星からやってきたスターマン、ジギーを演じることを止めた。売れている企画でバンドなのになぜやめるのかと思ったファンも多いと思う。ボウイはジギーを演じ続けることに疲れたというか、限界を感じたのだと思う。それは、その頃のボウイのファッションやパフォーマンスを見てもらえばわかると思う。そういう意味でもやれることはやりつくしたんだと思う。そして、自分が心底目指していたスターマンの座を自分の表現でものにした。寧ろそこまでの奇抜なファッションやパフォーマンスはボウイがスターの座に駆け上がるための必死の手段であったのだと思う。俺はその「ジギー・スターダスト」でデビット・ボウイは完結し終わってそこまでが全てでいいと思うようなところがあった。勿論、それはパフォーマンスということでなく、音楽的にである。先も見据えつつそこまでのロック、ソウル、サイケ等、様々な音楽的要素を持ち、ボウイとして出し尽くした音楽の完成であって、いつ聴いても素晴らしいし、飽きがこないアルバムである。ジギーは自分にとってはそういうアルバムである。
ライブを観ながら、ボウイのことを整理していくと、でもな、ボウイはジギーでスターの座に登りつめて、そこからの第一線での活動の方が長いんだよなと思う。思えばその後も自分も好きなヒット曲も数々ある。時代に敏感に反応し、常に変化し、進化し続けた魅力的なロックスターだ。ジギーを終えた後、ボウイはグラムロックを確立するが、その後も数年はジギーの片鱗をうかがわせる音楽活動が続いていたが、それはファッションやパフォーマンスを含め極端な変化はファンに違和感を感じさせると思ったか、或いは自然の流れであったのだろう。ブライアン・イーノとの三部作あたりから、デビット・ボウイの本性がその姿を見せ始める。そして、ここは端折って簡潔に言ってしまって申し訳ないが(ボウイの音楽活動は聴いてもらえば、また聴いた人にはわかるから)、「ブラック・スター」でその生涯が幕を閉じるまで、ロックシーンの第一線で、謂わばスーパーポップロックスター☆としてのデビット・ボウイをジギーの後も演じ続け、パーフェクトにそのスーパースター☆の幕を閉じたのだと思う。
他のロックスターと比べてロックスターとしてのボウイのオリジナリティーは、約10年がかりで星から降りてきたロックスターをひたすら演じることでボウイの音楽とともに夢の世界をファンに与え続け成功したボウイのある意味役者のように演ずるというロックスターへの出発点にあると思う。それはスターなら誰でもそうだろうと思う人もいるかもしれないが、ロックミュージシャンの多くは素に近いところでやっていると思う。特異性を求め、ファッション、パフォーマンスを奇抜にし、かつ、星から降りてきたロッカーを演じるという当時、歌うたいとしては、他にない過剰な演出をボウイはジギーではしていた。そのジギーを終わりにしても、デビット・ボウイとして勿論、音楽性を含め、なお演じ続けたという点こそがデビット・ボウイの他にないオリジナリティーであったと思う。それゆえ、デビット・ボウイのロックスターとしてのイメージはどこか孤高であると思う。パーフェクトというのは、そういう意味で最後まで、イメージとしても、無論音楽的にも(時代を捉えその先を行こうとする)デビット・ボウイを演じきったということである。
「アドアストラ」というブラッド・ピット主演のSF映画がある。地球外生命体が宇宙のどこかにいると信じて、その探索のため遥か海王星まで宇宙を旅して行方不明になった父を追って、ブラッド・ピット演じるロイがその父を追うというストーリーである。デビット・ボウイの「スペース・オディティ」のトム少佐と重なるところがある。そのためには宇宙の遥か彼方まで飛んでいこうという意志(トム少佐はボウイがスターの座に登りつめるという意味を含むが)は同じである。SFの空想映画とはいえ、月から火星へ、火星から海王星へと地球から43億キロも離れた星☆への旅は気も遠くなるような時間と空間を思わせロイの孤独と強靭さを思う。俺も「男のひとりめし」で、仕事を続ける毎日は朝食を作り勤めに出て、昼は外食、ひとりめしをして、仕事を終えて帰宅し、その日の洗濯をして夕食を作り、明日の用意をして夕食を食べて風呂に入って寝る。ひとり暮らしなので、勿論、仕事に出れば職場の人と話もするが、一日、誰ともあまり話をしないで終わるようなこともある。これが一週間になり、一か月、一年と続くとなると、仕事を終えて職場からの帰途、車を走らせながら、なんだか、「アドアストラ」みたいだなと。宇宙を遥かひとりで旅をしているような気分になったことがある。ならば、自分も宇宙の神秘を解き明かさなきゃだな???
話を戻すとロイの父は「メン・イン・ブラック」のトミー・リー・ジョーンズが演じている。ロイは既に父は死んでいるだろうと思っていたのだが、火星で生きているという情報を得て、海王星へ向かう。ロイは父との再会を果たし、父は遥か海王星まで探索をしたがまだ生命体は発見していないことを語り、この探索が無駄になるから発見するまでは帰れない、お前たちを捨ててここに来た自分はここが家だと言う。ロイは「無駄じゃないよ。僕たちが全てだとわかったんだ。」と答える。これは空想映画だが、実はこの宇宙で自分も人類が全てであると思っている。知的生命体どころか生命体すら発見できないだろうと思っている。結局、ロイは父を連れ戻すことは叶わず、奇跡的にひとり地球に還る。というストーリーである。宇宙をひとり飛び続けている時、ロイが繰り返し言う「いつまで続けるんだ!」(これはボウイも思ったかもしれない)という言葉と「父は遥か彼方のものを見ようとして、自分の間近にあるものを見ようとしなかった。」(ボウイは遥か彼方に辿り着きたいと願い、そこに辿り着き、長きにわたって、星空から地球を眺めるような思いを味わっていたと思う。まじかのものを見ていたか見ていなかったはわからないが、おそらく見ることはできなかっただろう。しかし、自分が見える時代をとらえ、かけがえのないファンに対して最後までボウイを演じるということで、スーパーロックスターとしての責務を果たそうとしたのに違いない)という言葉が印象に残るのである。
R.
ライブを観ながら、ボウイのことを整理していくと、でもな、ボウイはジギーでスターの座に登りつめて、そこからの第一線での活動の方が長いんだよなと思う。思えばその後も自分も好きなヒット曲も数々ある。時代に敏感に反応し、常に変化し、進化し続けた魅力的なロックスターだ。ジギーを終えた後、ボウイはグラムロックを確立するが、その後も数年はジギーの片鱗をうかがわせる音楽活動が続いていたが、それはファッションやパフォーマンスを含め極端な変化はファンに違和感を感じさせると思ったか、或いは自然の流れであったのだろう。ブライアン・イーノとの三部作あたりから、デビット・ボウイの本性がその姿を見せ始める。そして、ここは端折って簡潔に言ってしまって申し訳ないが(ボウイの音楽活動は聴いてもらえば、また聴いた人にはわかるから)、「ブラック・スター」でその生涯が幕を閉じるまで、ロックシーンの第一線で、謂わばスーパーポップロックスター☆としてのデビット・ボウイをジギーの後も演じ続け、パーフェクトにそのスーパースター☆の幕を閉じたのだと思う。
他のロックスターと比べてロックスターとしてのボウイのオリジナリティーは、約10年がかりで星から降りてきたロックスターをひたすら演じることでボウイの音楽とともに夢の世界をファンに与え続け成功したボウイのある意味役者のように演ずるというロックスターへの出発点にあると思う。それはスターなら誰でもそうだろうと思う人もいるかもしれないが、ロックミュージシャンの多くは素に近いところでやっていると思う。特異性を求め、ファッション、パフォーマンスを奇抜にし、かつ、星から降りてきたロッカーを演じるという当時、歌うたいとしては、他にない過剰な演出をボウイはジギーではしていた。そのジギーを終わりにしても、デビット・ボウイとして勿論、音楽性を含め、なお演じ続けたという点こそがデビット・ボウイの他にないオリジナリティーであったと思う。それゆえ、デビット・ボウイのロックスターとしてのイメージはどこか孤高であると思う。パーフェクトというのは、そういう意味で最後まで、イメージとしても、無論音楽的にも(時代を捉えその先を行こうとする)デビット・ボウイを演じきったということである。
「アドアストラ」というブラッド・ピット主演のSF映画がある。地球外生命体が宇宙のどこかにいると信じて、その探索のため遥か海王星まで宇宙を旅して行方不明になった父を追って、ブラッド・ピット演じるロイがその父を追うというストーリーである。デビット・ボウイの「スペース・オディティ」のトム少佐と重なるところがある。そのためには宇宙の遥か彼方まで飛んでいこうという意志(トム少佐はボウイがスターの座に登りつめるという意味を含むが)は同じである。SFの空想映画とはいえ、月から火星へ、火星から海王星へと地球から43億キロも離れた星☆への旅は気も遠くなるような時間と空間を思わせロイの孤独と強靭さを思う。俺も「男のひとりめし」で、仕事を続ける毎日は朝食を作り勤めに出て、昼は外食、ひとりめしをして、仕事を終えて帰宅し、その日の洗濯をして夕食を作り、明日の用意をして夕食を食べて風呂に入って寝る。ひとり暮らしなので、勿論、仕事に出れば職場の人と話もするが、一日、誰ともあまり話をしないで終わるようなこともある。これが一週間になり、一か月、一年と続くとなると、仕事を終えて職場からの帰途、車を走らせながら、なんだか、「アドアストラ」みたいだなと。宇宙を遥かひとりで旅をしているような気分になったことがある。ならば、自分も宇宙の神秘を解き明かさなきゃだな???
話を戻すとロイの父は「メン・イン・ブラック」のトミー・リー・ジョーンズが演じている。ロイは既に父は死んでいるだろうと思っていたのだが、火星で生きているという情報を得て、海王星へ向かう。ロイは父との再会を果たし、父は遥か海王星まで探索をしたがまだ生命体は発見していないことを語り、この探索が無駄になるから発見するまでは帰れない、お前たちを捨ててここに来た自分はここが家だと言う。ロイは「無駄じゃないよ。僕たちが全てだとわかったんだ。」と答える。これは空想映画だが、実はこの宇宙で自分も人類が全てであると思っている。知的生命体どころか生命体すら発見できないだろうと思っている。結局、ロイは父を連れ戻すことは叶わず、奇跡的にひとり地球に還る。というストーリーである。宇宙をひとり飛び続けている時、ロイが繰り返し言う「いつまで続けるんだ!」(これはボウイも思ったかもしれない)という言葉と「父は遥か彼方のものを見ようとして、自分の間近にあるものを見ようとしなかった。」(ボウイは遥か彼方に辿り着きたいと願い、そこに辿り着き、長きにわたって、星空から地球を眺めるような思いを味わっていたと思う。まじかのものを見ていたか見ていなかったはわからないが、おそらく見ることはできなかっただろう。しかし、自分が見える時代をとらえ、かけがえのないファンに対して最後までボウイを演じるということで、スーパーロックスターとしての責務を果たそうとしたのに違いない)という言葉が印象に残るのである。
え?!何が「フライ」なのかって?
だって、ボウイも「アドアストラ」もフライ☆↑でしょ。
どの店も旨い!
いわ瀬は薄めでお好み焼きに近い食感だがもちもちとサクサク感が違う。
本間はもんじゃ焼きに近い食感。焼きそばも旨い。
小山食堂はもちフク。焼きそばも旨し。
味はどの店もバッチグー!
どの店も旨い!
いわ瀬は薄めでお好み焼きに近い食感だがもちもちとサクサク感が違う。
本間はもんじゃ焼きに近い食感。焼きそばも旨い。
小山食堂はもちフク。焼きそばも旨し。
味はどの店もバッチグー!
R.
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