”the end of the north”と言っても、「この世の果て」ということではない。勿論、そういう連想は免れないかもしれないが、そういう意味ではない。「この世の果て」は”the end of the world”である。これは、「北の果て』つまり、最北端という意味である。最北端は具体的には埼北端、埼玉の北部の果てという意味である。しかし、「この世の果て」とは、いったいどこにあるのだろうか?この春、二度目に訪れた恐山は、本州の北端、果てにあるが、あの場所がそれに近いのかもしれない。山に囲まれた蓮の花の中心にあって、荒凉と浄土とが同居する場所。そう言いながら、心では、どこか、「この世の果て」とは恐山は違うと言っている。自分がそう思えないのなら、その場所は「世界の果て」にはなり得ない。もしかしたら、歌にもなって、その耳慣れた言葉は、場所を指しているのではなく、時間、つまり人生の終わりの時を指しているのかもしれない。そのスタンダードにもなっている有名な歌は、恋の終わりを嘆いてそれはこの世の終わりみたいなものだと歌っている。つまり、the end of the worldという言葉は、その歌を離れてひとり歩きしているのだろう。そうして我々はその言葉の響きが持つ魅力に憧れて、それはいったいどんな場所なのだろうなどと想像力を働かせる。
成身院百体観音堂
さて、埼玉北部の北の果て、児玉地方は、上記したような「この世の果て」のイメージがあるというわけではない。しかし、県堺にあるこの地方は、埼玉北部の端、埼玉の最北端、県堺のエリアという独特の感じや雰囲気はいくぶん持っていると思う。川を渡れば他県、山を越えれば他県、そして中央からは北に最も遠い。そういう地理的なものが醸し出す雰囲気でもあると思う。かつて、埼玉の南部に勤めていたときに、南部の水が自分にどこか合わないと思ったことがある。埼玉の北部には、北部の水というものがあるのだ。熊谷であっても、深谷であっても北部は北部でローカルといえばローカルだ。そしてこの児玉地方は、さらにその北部、謂わば埼玉の北端ということで、ローカルの中のローカルなのだ。それは、秘境のような山間の村というような意味で言っているのではない。勿論、この土地は、山あり、川あり、畑あり、田んぼありの何の変哲もない田舎の町である。熊谷、深谷、本庄に比べたら、ド田舎、山んちだということを言っているのではない、そこに身を置いてわかるまた違う田舎の感じを持つ埼玉最北端の土地に興味を持ち、むしろ先に書いた埼玉北部の水の源泉のようなものを見ているのかもしれない。
長泉寺骨波田の藤
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