久しぶりに高崎の観音様をお参りした。手を合わすと巨大な観音像が、猛暑の中、涼しげな面持ちをして、聳え立っていた。お参りを終えて、下りの参道の途中でもう一度振り返り、観音様に手を合わせて別れの挨拶をした。
車に乗って、エアコンをつけてもまだボタボタと垂れてくる汗を拭いながら、走った。そうすると、ふと無意識に口ずさんでいた歌があった。その歌は、あなたにとっては意外であるかもしれないけれども、「お〜さ〜なあなじみぃ〜のかんのんさぁ〜ま〜にゃ〜。おいら〜のこころぉはおみとお〜し〜。」である。高倉健の「唐獅子牡丹」である。
すると同時に、その日の三島が思い出された。思い出されたと言っても、特集番組を見たり、あるいは読んだりした記憶の中のということである。しかし、その日の出来事は子供ながらも白黒テレビの画面で見ていてその記憶はしっかりとあるのである。ことに及ぶその日、三島由紀夫は若い楯の会のメンバーとともに、駐屯地に向かう車の中で、その「唐獅子牡丹」を声高らかに歌っていた。ともすると揺らぐ決心を諫めるためか(いや、それはないな)、或いはことに及ぶその思いを勢いづけるためか、いや、その覚悟をメンバーとともに確認するためであろう。
三島はその事件を起こしたおとしまえとして、自決する。最初からそのつもりだったのだ。その事件は「三島事件」と呼ばれ、クーデター未遂ということで扱われた。三島の主張に耳を傾ける自衛隊員はいなかった(もしかしたら、いたかもしれない)。三島は自衛隊を国軍として、天皇に返したかったのである。それが日本の文化と伝統を守ることと信じていた。三島を語るときに「憂国」という言葉があるが、三島は当時、日本の安保闘争、全共闘等を国の乱れとして憂いていたのである。そして、楯の会の若者たちに対してけじめをつけるため、その事件の責任をとって、自決をしたのであるが、ナルシストの三島由紀夫は、滅びゆく、失われゆく日本の秩序と美とともに、自分の死に場所を初めから求めていたのであろう。
その時、三島の本懐が実現していたとするならば、日本にとっても、日本国民にとってもよいことであったとは思えない。なぜなら、日本はすぐそこにあった体制に逆戻りしたに違いないと思うからだ。また、戦後の日米関係というものもあるので、そんなに簡単に日本国内の体制がそこに戻るのを、米国も許すとも思えない。
三島は東大全共闘の学生との討論会で、「私の主張は、軍国主義ということではない。」と言っていたと思うし(自分はその闘争は学生を巻き込み全共闘に入ったことが、間違いであったのではないかと思うが、三島は若い力と若者の精神の潔癖というものを信じていたと思うので、青臭く失礼な答弁や態度をする若者たちの態度に怒ることもなく一人語り続けていた。安保に反対するという立場では、方向性は両者一致してはいたのである。)、その事件の日に、「自衛隊は国を守る軍隊でなく、憲法を守る軍隊になってしまったのだ。」と言っていたと思う。実は、三島は、その国内の乱れを治めるために自衛隊が動くのを待っていたのである。その時は警察庁が動き、機動隊が出動した。それで、安保闘争は終結した。また、三島は、長引く問題になるが、早くも憲法の矛盾を批判し、突いていたとも言えるのである。
そして現在、自衛隊はよくやっていると思う。米国の要請や国連の要請で、出動することがあっても、その都度、国会で議論し、憲法解釈の範囲で(と言ったのは米国であったと思うが)、或いは臨時法案を決め出動していく。当初、まだるっこしいなと思うこともないこともなかったが、それで、いいんだと今は思っている。それでいいんだというのは、そのくらい慎重でという意味である。他国の領空侵犯、領海侵犯(これは漁船であったりするので、海上保安庁が対応していると思う。)の対応もそれでよいと思っている。よくやっていると思う。
俺は弱腰ということではなく、常に非核、戦争反対の立場である。それは、戦後の我が国の立場と同じである。戦後、我が国は「人命尊重」を掲げ、この立場を貫いてきた。それは、戦後築いてきた我が国の成長と平和の歴史でもあると思う。しかし、それは真の「戦争反対・放棄」ではないと言う人がいるかもしれない。自国の自衛のためであれば、戦争をするという立場は、やはり、戦争を引き起こし(それがまた、大戦に発展することもあるかもしれない)、両国の多くの国民の命を奪うことになるだろう。「非戦」を唱えたマハトマ・ガンジーは無抵抗ということでなく、(ひたすら耐え)武力、暴力で戦わずして、インドを英国から取り戻した。それこそが、真の「戦争反対」であるかもしれない。
R.
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